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珠玉の名曲たち、クラシック音楽を楽しむブログ。クラシック音楽の楽曲をテーマに、短いエッセーを書いています。

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チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」:人生の総て

チャイコフスキー:交響曲第4-6番チャイコフスキー:交響曲第4-6番
(2009/11/11)
ムラヴィンスキー(エフゲニ)

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チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

チャイコフスキーの交響曲の中で最も傑作なのは何番か。
様々な意見はあるだろうが、チャイコフスキー自身はこの第6番悲愴が最も良く出来た交響曲だと思っていたようである。
作曲者自身がいい出来栄えだと思っていたものほど、周囲からは大した評価もされないで、逆にどうってことないなあなんて思っているものがとんでもないほど高評価されるというのは芸術の世界ではよくあること。村上春樹の『ノルウェイの森』や、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」のような有名な作品は後者に当たる。
このチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、現代でもチャイコフスキーの交響曲の最高傑作と言われることが多い。僕もそう思う。最も好きなのは5番かなあと思うけれど、とかく4番や5番のような(4, 5, 6番は三大交響曲と呼ばれる)明るい曲はすぐ精神性の欠如などと批判されてしまう。
別にそんなことはないと思うが、そうやって評価されがちなのは事実であり、そういう意味で「悲愴」は自他共にその完成度については有無を言わさない感がある。
実際に「悲愴」は、精神の深い深いところから湧いてきたものが表現されている音楽だと思う。「人生交響曲」と呼ばれる交響曲第7番(未完)の作曲を途中で止めて、「悲愴」の作曲に取り掛かったのだが、それは変ホ長調の交響曲では表現できなかった人生の「深いもの」を、ロ短調の交響曲で表現しようという試みだった。
そうしたこの曲の持つ内省的な音楽性と、3楽章が盛り上がり4楽章が静かであるという一見しただけでわかる構成の特徴と、まさに音楽の内部と表面の両方から評価されやすい、良いバランスを保った音楽だろう。
この曲についてひとつ注意したいのは、副題「悲愴」についてである。
原題はロシア語で“патетическая”であり、意味は熱狂的・感情的・爆発的といったところ。よく用いられるフランス語の“Symphonie Pathétique”とは意味合いが違う。
チャイコフスキーはこのフランス語の題も用いたらしいが、わかっていて敢えて使ったのか、そうでなく響きの近い言葉として使ったのかは不明である。
いずれにせよ、“tragedy”のような悲劇ではないのは確かだ。もっと人生における多くのものを包含しているのだろう。

曲を聴けば、1楽章から暗鬱とした印象は避けられないところだ。「悲愴」というネーミングもあり、どこか病んだ音楽のように捉えがちである。実際にチャイコフスキーは人生でしばしばうつ病に罹っており、はっきりとこれが鬱と関連しているとは言えないが、チャイコフスキーにとっては、人生を描く上で必要不可欠な要素だったのだろう。
2楽章で明るくなるが、この変拍子のワルツは「楽しさや美しさの中にいつもある不安定さ」という、これもひとつの真理のように思われるのだが、そうした人生の複雑さが表現されている音楽だろう。スラブに特徴的なリズムであり、地理的にも精神的にも、かように現れてごく当然な音楽だと言える。
ラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、美しくも不気味な音楽は、どうしてこうも魅力的なのだろう。
そして、3楽章で栄華を迎える。常に支配するト長調。スケルツォ楽章だが、当時の普通の交響曲と比べて考えると、これはスケルツォとして聴こえてはこない。ここが、いわゆる情熱的という意味の“патетическая”なのだろう。僕には、この楽章は「生き急いでいる幸福」のように思われる。もし、人生哲学として、幸福を至上として生を全うすることが人間のあるべき姿だと言うならば、こうはなるはずはないのだ。ロ短調の交響曲で、華々しい部分がト長調であるということにも、少し触れておきたい。
4楽章冒頭、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが1音ずつ主旋律の音を担当するという、なかなか凝った演出から始まる。なるほどそういうものか、と頷いてしまう。
希望や祝福はないだろう。しかし、なぜか感動がある。最後に音楽は霧のように消えていく。「死」をイメージしていると考えるのが妥当だが、受け取り方は様々にあって良いのだ。人生とは、必ずしも「死」で終わるとは言えないし、「死」が何なのかもよくわからない。
自分なりの人生のイメージをもってこの曲に望めば、妙に楽観主義者でない限り、必ずこの曲は、相当の深さと重さをもって迎えてくれる。そして何かしらの答えを示してくれる。
デカダンスのような美とはまた違う。この曲の美しさは、人が人生というものを賭して描いたときにだけ見える、病めるものや健やかなるものを総て含んだ美なのだろう。

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| チャイコフスキー | 20:38 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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クラウス 交響曲 ハ短調「葬送交響曲」:短調、革新、疾風怒濤

クラウス:交響曲集 第3集クラウス:交響曲集 第3集
(2000/11/01)
スンドクヴィスト

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クラウス 交響曲 ハ短調 VB148「葬送交響曲」

ヨーゼフ・マルティン・クラウスは(1756年-1792年)はドイツ生まれでスウェーデンに渡った作曲家。年代的にはモーツァルトと同い年であり、ハイドンとも交流があった古典派の作曲家である。
「スウェーデンのモーツァルト」という異名を持つ。まあこういう呼び方は良い面も悪い面もあって、モーツァルトと同時代を生きた「かのモーツァルトのごとき偉大な作曲家」という意味で用いられて、愛称として広まることで作品自体も広まるという点は良い点である。
しかし、そもそもクラウスはスウェーデン人ではないし、うっかり「モーツァルト風の作曲家」とかシベリウスやグリーグなどのような「北欧の国民色の強い作曲家」などと捉えてしまいがちなのはあまりよろしくない点と言える。そう思って期待して聴いて、思ってたのと違ってガッカリ、なんてこともあるかもしれない。
あくまで、これはスウェーデンでの、クラウスの人気の高さや敬愛されていることを示すものだ。
12才まではマンハイムの学校で学び、そこでドイツ語やラテン語の文学に触れる。またヴァイオリンを習い、それを通して宗教音楽に触れることにもなる。
大学ではマンハイムを離れ、マインツやエアフルトなどの大学で哲学や法学の勉強をしようと決心する。そして、ゲッティンゲン大学で出会ったシュトゥルム・ウント・ドラング運動の学生団体「ゲッティンゲンの森の結社」と出会う。この出会いが、彼の芸術人生に大きな影響を与えることになる。
シュトゥルム・ウント・ドラング、すなわち疾風怒濤の時代がクラウスの音楽に与えた特記すべきものは大きく2つ、「革新」と「短調」であると言えるだろう。
そして、クラウスの最高傑作とも言えるこの「葬送交響曲」は、クラウスの人生の総決算とでも言えるような作品。クラウスの音楽とは切っても切れない関係にある、スウェーデンの王グスタフ3世の死を受けて書いた、彼ための葬送音楽である。
クラウスの最晩年の作品であり、これを作って間もなく、彼もまた追うようにこの世を後にした。

グスタフ3世の元で音楽をする機会を与えられたクラウスは(この頃は宮廷などでお抱えの音楽家になることが、職業人としての音楽家のスタンダードな道だった)スウェーデンへ赴く。王が考案したオペラの作曲を依頼されたのだ。その成功もあって、クラウスは劇場音楽の作曲家としても高い地位を得る。
王のお気に入りという立場から、古いスウェーデンの音楽界に旋風を巻き起こしたクラウスは、スウェーデンの音楽発展に貢献した。そして、グスタフ3世とともにヨーロッパ各地を周り、多くの音楽家と交流する機会をも得たのだ。
そんな芸術の大恩人であるグスタフ3世の死、しかも暗殺による死にあたって書かれたこのハ短調の交響曲は、その調性からもわかるように、クラウスの感情が直球で表現されている。
4楽章構成だが、編成は一般的な交響曲の編成ではなく、フルートなしのホルンは4本。消沈気味の音色を作ろうとしたクラウスの革新性が見られる。
モーツァルトの交響曲第25番でも書いたが、この時代の「短調」は珍しい。短調の作品の多いクラウスは、むしろ本家モーツァルト以上に巧みに、音楽表現の武器として「短調」を用いていたのではないだろうか。
1楽章は冒頭からティンパニが活躍。荘厳な雰囲気を醸し出す。2楽章もまたそれを受けて、悲しみの込められたラルゲットが展開される。
3楽章はコラール。教会の伝統である。王の葬送音楽には必要不可欠であろう。
4楽章は伝統的なスウェーデンの賛美歌の様式に習って作られている。後半にはフーガもあり、基本的には古典派の伝統・教会の伝統に則りつつも、ホルンによるやや長めのソロがあったりと、伝統を打ち壊すようなスタイルも見られる。そして最後は1楽章の冒頭と同様、ティンパニのソロが導く後奏。まるで循環形式だ。このあたりは聴いていて実に面白い。
例えばこういうことがロマン派ならば普通なのだろうが、これがベートーヴェンよりも早くあったということを考えると驚きである。
シュトゥルム・ウント・ドラングは、簡単に言うと、当時の伝統的な古典に対抗して、もっと自由に感情を表出・表現するという芸術運動だろう。これは文学ではロマンティシズムへと繋がって行った。
クラウスは作家や学者としても活躍し、シュトゥルム・ウント・ドラングの音楽に関する著作も残しているという。彼の音楽は、シュトゥルム・ウント・ドラングの色濃い影響によって、音楽史では非常に早くロマン派音楽へと足を踏み入れた作曲家のようだ。
多くの作品で意義深く用いたこの「短調」という武器を使って、個性的なスタイルで古典派音楽の「革新」を行ったクラウス。彼の音楽性はこの曲ですべて明らかになると言っても過言ではないだろう。

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| クラウス | 23:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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殷承宗ほか ピアノ協奏曲「黄河」:プロパガンダから芸術へ

Yellow River ConcertoYellow River Concerto
(1999/09/21)
Cheng-Zong Yin、 他

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殷承宗ほか ピアノ協奏曲「黄河」

作曲者名や曲名から判る通り、これは中国のクラシック音楽作品である。東洋の国であるという点に加えて社会主義の影響もあり、ソ連や日本以上にいわゆる西洋音楽からは遠い国であった中国において、最も有名なクラシック作品がこのピアノ協奏曲「黄河」なのではないだろうか。
この曲の原曲となったのが1941年に冼星海が作曲したカンタータ「黄河大合唱」。中国人の友人にこの曲について聞いてみたら、皆知っているが、文化大革命のような気概を想起させるので、そんなに大声で褒めるようなものじゃない、と語っていた。
このカンタータは愛国的な作品であり、愛国的ということは、それがどういうものか言わなくても、ほとんどの日本人は理解できるだろう。つまり、中国の長い長い歴史と栄華の賞賛、残虐行為によって多くの人が苦しみを負った(とされる)、日本の侵略行為に対する中国の戦い、中国人の不屈の精神、そういったものが描かれている作品である。
こうした社会主義リアリズムの象徴のようなカンタータは、中国国内では重要とされていても、やはりプロパガンダ的な意味合いの方が強く、クラシックの世界では特に注目すべき音楽とはされていなかった。むしろ世界的に、芸術として高く評価されているのは、このカンタータを元に作られたピアノ協奏曲「黄河」の方である。
僕には、この事実は非常に興味深く思われる。いかにそれが一部の集団から敬愛されようとも、思想そのものが前面にいるような音楽よりも、思想が音楽という芸術に昇華したもの、音楽という形で芸術になったものの方が、人の心に響くのは当然なのだ。
ピアノ協奏曲「黄河」は、この「中国的な愛国思想」ゴリ押しの長大なカンタータを、ピアニスト殷承宗ら中国の音楽家たちが協力して、比較的聴きやすいクラシックの音楽作品にしようとしたものである。
その裏にあった動きは文化大革命であり、結局この作品もプロパガンダで社会主義リアリズムの作品であることには違いないのだが、音楽の「表現」という点では明らかに違う。1969年に完成したピアノ協奏曲「黄河」は、政治的背景はあるにしろ、原曲からはかなり政治色が薄くなり、芸術的には濃くなった名曲であろう。録音もたくさんあり、特に人気の高い中国ピアニスト、ラン・ランが弾いているものがドイツ・グラモフォンという大手から出たため、知名度もぐんと上がった。北京オリンピックの開会式での演奏も記憶に新しい。

さて、僕は「川の音楽」が好きだとここで何度か表明してきたが、これも川の音楽である。結果、この曲も好きということになる。本当は川の流れる悠々とした様の表現が美しくて好きなのだが、この曲はそういう雰囲気ではない。文化大革命が背景にあるため、進め進めの明るい雰囲気。
各楽章には副題があり、第1楽章「序曲・黄河の舟歌」、第2楽章「黄河を頌える」、第3楽章「黄河の怒り」、第4楽章「黄河を護れ」。副題はカンタータから取っていて、カンタータほど副題と内容が直結してはいないが、それでも音楽は副題そのまんまという感じでわかりやすい。
ファンファーレから1楽章が始まり、ピアノとオーケストラは、派手に華やかにかけあいを見せる。2楽章はいくぶん抒情的で、中国の国歌も用いられる。3楽章は「怒り」という題名ほど怒ってはいない。ピアノは多少怒っているようにも聞こえる。この楽章で注目したいのは、竹笛が入ることだ。これはいかにも中国風。
4楽章が白眉。勢いのあるピアノとオーケストラ。まるでショスタコーヴィチを思わせる。ジャズ組曲第2番のようだ。音楽から伝わる社会主義を賛美する空気。時代錯誤かもしれないが、クラシックとはそういうものだ。
とにかく、ピアノが技巧的で華やか。同じ東洋でも、日本文化は侘び寂びが要だが、大陸や半島の文化は、豪華絢爛さやキッチュさが特徴的とも言える。まさしくその行き過ぎたような華やかさは、西洋音楽の歴史の中では、ある意味新しい。
そして、ソビエトの巨匠作曲家たちを模したような、音楽が行進する力、その楽しさ!
ちょうど隣国との関係が不安定な時期だが、音楽に罪はないというのは、一応僕がこのブログでもたまに語っている持論である。戦争、軍隊、人種差別など、様々な問題と音楽は密接に結びついてきたが、真の音楽の美しさを前にしたら、人はどうこう言うことなどできない。こうした音楽の中にある美を、人間はきちんと見出していくべきなのだと思う。
人間たちのやり取りが問題となっていても、黄河はただ流れているだけで、罪はない。音楽もまた、恣意的に用いられたとしても、そこに美がある限り、それを見るということ――それが最も大切で、最も幸福な音楽への態度であり、そうした態度でこのピアノ協奏曲「黄河」を聴きたいものだ。それは本当に、楽しい時間である。

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| 殷承宗ほか | 19:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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サリヴァン チェロ協奏曲:サリヴァン入門

Icon: Charles Mackerras/5cd BoxsetIcon: Charles Mackerras/5cd Boxset
(2011/09/12)
Charles Mackerras

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サリヴァン チェロ協奏曲 ニ長調

アーサー・サリヴァンは英国の劇音楽の作曲家として名高い。ギルバートという劇作家とのコンビでオペラを作っており、ギルバート&サリヴァンという組み合わせはCDなどでもよく見られる。
彼らのオペラはサヴォイ・オペラと呼ばれ、19世紀後半のヴィクトリア朝時代におけるオペレッタのようなコミカルなオペラとして人気を博した。
人気だとか名高いとかよく見られるとか言ったが、実際にはあまり日本でポピュラーな作曲家ではないだろう。英国の作曲家というと、あまり華やかでなく、どちらかと言うと渋めの印象が先走るが、サリヴァンは劇音楽の第一人者というだけあって、他の英国作曲家とはまたひと味ちがう。
いわゆる純音楽的ではないが、明るい響きの良質な西洋音楽を楽しむという点では、サリヴァンの音楽は本当に良いものだ。
オペラの音楽を聴くのが、彼の音楽を理解するのにもっとも手っ取り早いに違いないが、その魅力をお手軽に味わうなら、僕はこの「チェロ協奏曲」をおすすめする。
1866年、サリヴァンは「アイルランド交響曲」(ハーティのものとは別のもの)を初演した年だが、イタリアのチェリスト、アルフレード・ピアッティによるシューマンのチェロ協奏曲の演奏を耳にして、ピアッティのための曲を作りたいと考えた。
チェロ協奏曲は、当時はまだポピュラーな演目ではなかった。シューマンのものも1850年に作られたばかりだし、ハイドンやヴィヴァルディのものも忘れられていた時代である。ましてや英国。サリヴァンは、自身の作品でチェロ協奏曲が重要なレパートリーになれば良いと願っていた。
しかしながら、この曲は彼の生前には3回ばかりしか演奏されなかった。
さらに残念なことに、この曲の楽譜が1964年の出版社の火事によって焼失してしまう。こうして埋もれてしまうかに見えたこの作品を、今我々が聴くことができるようになったのは、一昨年に惜しまれつつこの世を去ったイギリスの巨匠指揮者、サー・チャールズ・マッケラスのおかげである。
マッケラスはサリヴァンの作品を多く演奏し、その再評価に貢献したが、サリヴァン関連の最も偉大な業績が、チェロ協奏曲の復元であろう。
楽譜焼失の11年前にチェロ協奏曲を指揮したマッケラスは、その記憶を元にチェロ協奏曲の復元を行ったのである。ヤナーチェク作品の演奏のためにチェコ語を習得するほどの人物である。さすがとしかいいようがない。

伝統的な3楽章構成で、初期ロマン派の香りが芳しい。また、1楽章だけが極端に短いという特徴を持つ。普通は1楽章が最も長いものだが、そのあたりがややイレギュラー。
その初期ロマン派から古典派らしい、明朗快活な主題で始まる。その印象的な主題が突然すっと消えて、ソロが現れる。
1楽章は3分ほどの長さで、別段ソロに超絶技巧的な面も見られない。まるでこれから始まる劇物語のための序曲であるかのようだ。
2楽章は1楽章から間髪をいれず始まる。金管楽器によって牧歌的に始まると、現れるのはアンダンテの美しい旋律。ピッツィカートの伴奏に乗った、のどかでいて品の良いメロディーにうっとりしてしまう。初演のときもこの楽章は賞賛されたらしい。後半にはスケルツォ的な音楽になるが、再び穏やかな曲想に戻る。
そして3楽章で再び、元気の良いあの1楽章のテーマが蘇る。チェロは連続して音階を奏で続け、聴き応えもぐっと増してくる。
この作品は、実際のところ、他の後期古典派や初期ロマン派の作曲家たちと比較すると、構造的にはしっかりしたものではなく、かつてグラモフォン誌でも、メロディーの親しみやすさはあっても十分に効果的に構築されてはいないと批判されたことがあった。これは的を射た批判だと思う。
まあそうは言っても、サリヴァンの白眉はオペラ・劇音楽である。そちらがしっかりしていればそれで良い。しかし、サリヴァンの劇音楽を聴こうと思っても、劇そのものが有名ではないし、内容もわからないとイマイチ聴いても面白みに欠ける、と感じる人も多いだろう。
そこで、ぜひこのチェロ協奏曲を、サリヴァン音楽への導入として推薦したいということなのだ。サリヴァンの舞台音楽は聴いていて楽しいし、アイリッシュ交響曲もまた非常に素晴らしい曲である。ぜひ、この親しみやすいチェロ協奏曲をきっかけに、サリヴァンの音楽に触れる人が増えてほしいものだ。故マエストロ・マッケラスも喜んでくれるだろう。

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| サリヴァン | 21:10 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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ヨハン・シュトラウスⅡ世 ポルカ「雷鳴と電光」:轟が生む麗しき美

雷鳴と電光 / シュトラウス・ポルカ・マーチ集雷鳴と電光 / シュトラウス・ポルカ・マーチ集
(1994/04/22)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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ヨハン・シュトラウスⅡ世 ポルカ「雷鳴と電光」作品324

「雷鳴と電光」や「雷鳴と稲妻」(原題はUnter Donner und Blitz)などと呼ばれる、これまた有名なシュトラウスⅡ世のポルカ。おそらくシュトラウスⅡ世のポルカの中で一番賑やかでやかましい曲ではないか。「爆発ポルカ」とかそういうイレギュラーなものを除けば。
大太鼓の連打が雷鳴を、シンバルが光る稲妻を表していると言われる。もとはシュトラウスⅡ世が、1867年のパリ万博で、当時の最新鋭の大砲を見たことが、作曲のきっかけになったとのことだ。大砲の咆哮を聴いて思いついた音楽ということを考えると、もともと大砲の轟音と火花のイメージもあったのかもしれない。
初演はドナウ川のほとりにある舞踏会場ディアナザール。ここでは多くのシュトラウス・ファミリーの作品が初演されている。「雷鳴と電光」は、ディアナザールで活動していた芸術家たちのグループ、「宵の明星」の舞踏会のために作曲された。
「宵の明星」のための曲だったため、はじめはポルカ「流星」という名の曲として作曲に取り組んだという。そうすると、今度は星の流れる様子もイメージとしてあったのではないかと考えられる。
こういう想像をするのはきりがないし、またそこが楽しいところでもある。自分なりのイメージを持って音楽を聴く楽しさは、音楽を聴くことの醍醐味だと思う。
僕はこの曲にどういうイメージを持っているかというと、もちろん雷!と言いたいところだが、実は明確に雷の音楽だと思って聴くことはあまりない。
むしろベートーヴェンの田園交響曲や、ヴィヴァルディの四季の「夏」などの方が、自然描写としての雷をイメージして聴く。
この曲では、シュトラウス音楽らしいノリの良さや、ウィーン音楽の軽妙かつ高貴な楽しさを重んじて聴いている。これは、多くの変わった標題を持つシュトラウス・ファミリーの音楽がある一方で、これらを標題以上に特徴づける音楽性の存在を示唆するし、特にこの曲はそういう意味で、あらゆるシュトラウスのポルカの代表格のような音楽だと思う。

「雷鳴と電光」という有名な標題のおかげで、この曲が示しているものは非常にクリアーなように思われるのだが、それ以上に、この曲が名曲たる所以は、シュトラウスのメロディーメーカーとしての才能や楽器の使用の妙が、上手く発揮されているところにあると言える。
序奏の後の第一主題、アウフタクトがあってスラーのある2音の繰り返し、続いて付点のはっきりしたリズム、この対比だけでも巧みなものだ。トランペットやピッコロの音色もよく響いて活かされている。
また、管弦楽版だけでなく、ピアノ版を聴いてみていただきたい。この曲のオーケストレーションの大きな特徴である、大活躍する打楽器群が、すべて取り除かれた状態の「雷鳴と電光」では、シンプルな構成の主題の、旋律としての美しさをストレートに理解できるだろう。トリオも含めて、本当に美しいのだ。
このまことに良く出来た主題が、オーケストラでは雷鳴と電光の轟々たる状況という要因によって、その伸びやかさ・しなやかさが、メロディーの麗しさが、いっそう引き立つ。
舞踏会という場に相応しい、ある程度の気品と、ある程度のラフさを持った音楽。モーツァルトの交響曲第25番のところで、疾風怒濤の中にもにじみ出る高貴さについて書いたが、同じようなことだ。
シュトラウスⅡ世の音楽の気品は、モーツァルトのような神がかりな高貴さとは全く別ではあると思いう。しかし、この曲の美しさは、まさしくウィーンの粋、ウィーン風ポルカの魅力そのものであり、それがまた“雷鳴”と“電光”によってひときわ際立つように作られている。
また、これは少し妄言かもしれないが、僕はこの曲に、騒々しいようで、そこに切れ味の鋭い美を見るのだ。言うなればそれは日本刀の美しさのごとく、平原で人を断つ戦を内包した造形としての美。華麗なる剣の舞、そこにポルカが流れる……なんてものまでイメージが暴走してしまう。
こうしたことは美学における一つの真理ではないのか。野獣がいて、美女はさらに美しくなるのだ。僕にはここにシュトラウスのポルカの、愉快さと芸術性の極致があるようにすら思われる。

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| ヨハン・シュトラウスⅡ世 | 19:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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