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珠玉の名曲たち、クラシック音楽を楽しむブログ。クラシック音楽の楽曲をテーマに、短いエッセーを書いています。

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モーツァルト 交響曲第25番:高貴さと荒々しさ

モーツァルト:交響曲第25番&第36番&第39番モーツァルト:交響曲第25番&第36番&第39番
(2010/10/20)
クレンペラー(オットー)

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モーツァルト 交響曲第25番 ト短調 K.183

かつて取り上げたモーツァルトの交響曲は38番の「プラハ」であり、その理由は、数多くあるモーツァルトの交響曲のうち「プラハ」には“3楽章構成”という非常に珍しい特徴がるからだった。
では、次に取り上げるこの第25番はどうかというと、これにもまた大変わかりやすい特徴がある。それは、ほとんどの交響曲が長調であるのに対して、“短調なのは25番と40番だけ”なのだ。なんとわかりやすい。
そして、映画「アマデウス」でも冒頭で用いられているし、テレビのBGMなどでも、その特徴的な短調のメロディーがインパクト大なので、よく使われているため、耳にしたことがある人が多いだろう。
モーツァルトの交響曲は全部で41曲あるが、中でも人気の高いこのト短調の25番。40番もト短調であり、そちらの方が長いので、25番は「小ト短調」などと呼ばれることもある。
ちなみにその40番は、モーツァルトの交響曲の中で1番人気と言ってもいい。2番手は41番「ジュピター」だろう。
そのツートップが君臨し、次いで晩年の35番「ハフナー」、36番「リンツ」、38番「プラハ」、39番あたりだろう。それらに負けず劣らずの人気曲が、若いころの作品である25番、29番である。
さてさて、本題の25番の話に入ろう。作曲された1773年という年は、モーツァルトが父レオポルトと共に3度目のイタリア旅行からザルツブルクに帰ってきた年である。帰ってきたのは3月で、それからこの年に作られた交響曲は、イタリア色の濃い音楽となる。イタリアという美しい芸術の都の影響は、たくさんの作曲家が経験していることで、モーツァルトも例外ではない。
しかし、7月になり、ウィーンを訪れ2か月ほど滞在すると、今度はあっという間にイタリア色を払拭し、ウィーン音楽の影響が見られた音楽作りをするようになる。その時の曲のひとつが、今回取り上げる25番だ。

この曲をどう解釈すれば良いかという問題は、これは本当に難しい。基本的にモーツァルトは、楽観的な、天から与えられた音楽であるという姿勢でだいたい良いと思うのだが、短調となるとなかなかそうもいかない。モーツァルト個人の悲しい体験や心境が現れているという説もあるし、作曲年代の近いハイドンの交響曲第39番(これもト短調で、楽器編成も近い)に影響されたという説もある。
後者の場合、ハイドンの39番はシュトゥルム・ウント・ドラング期の作品であり、それに影響されたと考えると、ある意味明解な答えが出せる。勢いのある豪快な演奏がいいだろう。色艶があるような弦楽器の音ではなく、1楽章の冒頭から、吹き荒れる嵐のごとく弾き殴るようなもの。クレンペラーの録音を聴いてみてほしい。
そして、打って変わってギャップの大きな、ゆったりと美しい2楽章。ギャップは大きいが、漫然さはない。代わりに高貴さがある。
3楽章もやはり高貴さがある。「ゆったり」はしているが、緩みがないのだ。緊張感と神々しい高貴さが、常にある。
4楽章は1楽章寄り。嵐のような激しさが、両端の楽章で現れ、この曲の疾風怒濤の印象を最後に再び強く主張するのだ。
若きモーツァルトが、心境的な理由にしろ、そうでないにしろ、これほど激しい曲調を強調しているということは、この曲の解釈でもっとも注目すべき点である。ただ、ここで僕は、モーツァルトの疾風怒濤の音楽の中にも、あるいは悲しみやもがき、苦しみという心境の中にも、いつも消えることのない高貴な印象があることを忘れてはならないと思う。
それはモーツァルトの音楽が神の贈り物だという僕の(または多くの人の)信念・信仰に反しない。こういうときの神様はすごくありがたい解決のひとつだ。これは神のきまぐれなのかもしれない。
モーツァルトという男の、自身の感情や他の作曲家との関係といった人間的な影響が、この曲の疾風怒濤の要因だとしたら、その激しさや荒々しさにもかかわらずこの曲からにじみ出る高貴さは、まさしく神の顕現ではあるまいか。

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| モーツァルト | 02:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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モーツァルト 弦楽四重奏曲第17番「狩」:美の展開と完結

モーツァルト : 弦楽四重奏曲「狩り」&ハイドン : 弦楽四重奏曲「皇帝」モーツァルト : 弦楽四重奏曲「狩り」&ハイドン : 弦楽四重奏曲「皇帝」
(2000/06/21)
アルバン・ベルク四重奏団

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モーツァルト 弦楽四重奏曲第17番 変ロ長調 K.458「狩」

モーツァルトの弦楽四重奏曲の中で最もポピュラーな作品であるこの「狩」は、聴く者の気分を高めるような冒頭の主題が印象的な作品だ。
この主題は、1783年に作曲されてから多くの人を惹きつけ虜にしてきたのだろう。狩りの際に鳴らされるラッパの信号に聞こえることから、「狩」という愛称で親しまれている。
テレビか何かのBGMとしてもよく用いられる。クラシックをBGMにするとしたらこれを選びたくなる気持ちもわかるというものだ。
モーツァルトらしい軽快さと、その親しみやすいメロディー、そして、これもモーツァルトらしいと言えばそうなのだが、古典派らしい高雅な雰囲気、そして交響曲のようなスケールの大きな曲ではなく、弦楽四重奏という程よいスケールが、これが小洒落たモノの紹介に調度良いBGMとなる理由である。
また、ハイドン・セットと呼ばれる6曲の作品群に含まれる作品である。
このハイドン・セットは、モーツァルトの弦楽四重奏曲の中でも、非常に重要なものだ。
モーツァルトが敬愛するハイドンに献呈した6曲の弦楽四重奏曲は、ハイドンから大いに影響を受けたもので、第14番から第19番が該当する。
またハイドン・セットの他の曲も取り上げるつもりなので、そのときもう少し詳しくこの話をしたいと思うが、ここで取り上げたいテーマはハイドン・セット全体の話ではなく、この曲の持つとてつもない魅力――美の展開と完結について語りたい。

圧倒的な美しさを持つ作品だと思っていたが、あまり頭の良くない僕にはその「理由」となるものが何なのかわからなかった。その手がかりとなったのが、フランスの音楽学者シルヴェット・ミリヨのこの曲への言及「この作品の主たる長所は(中略)高潔きわまりないテーマの輪郭と、そのテーマを見事に展開していく作品の構造に認めるべきである」という文言だ。これにはなるほどと思った。
この曲の良さは、まずなんといってもメロディーである。始まった瞬間、主題と簡潔な伴奏でメロディーが浮き立って聞こえてくる。
この主題の高潔さはもちろん、高低の移り変わりや、いわゆるヴァリエーション的な展開をして、それがどれも心地よく耳に響くような構造をとっているのだ。
それは1楽章のみならず、全ての楽章でそういった展開する美がうかがえる。それにより、すべてが良い、この曲には退屈な楽章はない、と感じるのである。
そして、終楽章の意味の大きさ。なんとなく軽く終わる弦楽四重奏曲は数多くあり、それまではそれが一般的でもあったのだが、この展開性に着目すると、第1楽章と同じだけの重要性を持つ終楽章を置いている作品であることに気づくだろう。本当に、「最後だし徹底的にやるぞ!」というモーツァルトの美への気概のようなものが見える。
そして、アダージョ楽章である第3楽章がまた素晴らしい。ぐっと叙情的であり、重厚でもある。軽快さと反対に位置するような、重々しくも熱い感情を感じる。
そういった高潔でいて熱い美の展開と、均整を保った美の完結をもってして、この曲はモーツァルト随一のカルテットとして現代まで愛されてきたのである。これが理想的な美のあり方か、とさえ思わせる、名曲中の名曲だろう。

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| モーツァルト | 15:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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モーツァルト 交響曲第38番「プラハ」:出る杭は愛される

モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」、第39番&第40番モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」、第39番&第40番
(2007/12/26)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン)

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モーツァルト 交響曲第38番 ニ長調 K.504「プラハ」

モーツァルト好きは定期的にモーツァルトの話をしないと気がすまないので、必然的にこのブログで取り上げる回数も多くなる。
一番多いのではないかと思っていたら、なんとシューマンとベートーヴェンの方が多いではないか。これではモーツァルト・ファンの名折れだと、自分を奮い立たせるためにもモーツァルトの話をすることにした。
僕は「好きな作曲家は?」と訊かれたら、モーツァルト、シューマン、ヴォーン=ウィリアムズの3人を挙げるが、この中でもやはりモーツァルトは一番かもしれない。
最も好きなクラシックの曲はモーツァルトではなくて、ベートーヴェンの皇帝なので、もちろんベートーヴェンも愛しているが、一生のうちどちらかしか聴けなくなるようなことになったら、間違いなくモーツァルトを選ぶ。僕には人間の精神が強く現れる音楽より、神がもたらした天上の音楽の方が性に合うのだ。
そして、この「プラハ」は、僕だけでなく多くのモーツァルト・ファンが口を揃えて言うのだが、「とても好きな作品」である。
それぞれのファンが1番好きなモーツァルトの曲はこれだというこだわりがあると思うが、たとえその1番に入らなくとも、これを上位に挙げる人は多いと思う。
その理由として考えられる意外な事実として、まずはこの「プラハ」という呼称と、そして全41曲と相当の数があるモーツァルトの交響曲の中で、そのほとんどが4楽章形式なのに対し「プラハ」は“3楽章しかない”という非常にわかりやすい特徴があるからだ。
これによって、宇宙全体のように無限の広がりを抱くモーツァルトの音楽の世界の入り口に意気込んで立った者は、「あ、この3楽章しかない交響曲がプラハって言うのね!」と、きっかけというか、モーツァルトの世界へ入るための取っ掛かりになり、他の多くの交響曲よりもずっと親しみをもってこの曲とお付き合いする訳だ。

といっても、これが初心者向けのやさしい簡単な曲かというと、実はそうでなくて、専門の研究者にとっても学術的に好奇心を寄せられる“謎多き名曲”である。
オペラ『フィガロの結婚』のプラハでの上演が大成功したことにより、モーツァルトはプラハから招待を受け、彼はこの交響曲を引っさげてプラハへ向かうことになるの。それがこの呼称の由来だが、なぜ3楽章なのかという点の方はまったくの謎である。
プラハの音楽趣味に合わせたという説や、単に作る時間がなかったという説、作ったはいいがボツにしたという説、そもそもこれは違う交響曲の差し替えのために作ったという説まで、色々である。まあ、専門家に任せたい。
冒頭は長い長いアダージョの序奏、この存在も謎だし特異だ。しかしこの序奏がまた聴衆を惹きつける。ニ長調の明るい調はやはりモーツァルト好きにはたまらない。3楽章のプレストも飽きが来ない楽しさがある。
個人的には第1,第3楽章のティンパニの心地よさが抜群というのも付け加えたい。
人気のある曲なので、実演もよくある。モーツァルトを深く知るきっかけとなる曲として長年聴いているファンも多いだろうし、この曲の謎に取り組み続ける研究者も多い。
こういう出る杭は握りやすくて良い。いつまでも愛していられる名曲だ。

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| モーツァルト | 18:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」:序奏の美

Mozart: Piano Concerto No. 9 & No. 27Mozart: Piano Concerto No. 9 & No. 27
(2002/05/16)
Jean-Marc Luisada

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モーツァルト ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K.271「ジュノム」

今回はちょっと攻めて書いてみようと思い、変なことを書いても許してくれるであろうモーツァルトさんにしてみたのだ。
ベートーヴェンやブラームスについて適当なことを書いてしまうと、なんだか厳つい霊の祟りに遭いそうで恐ろしいが、モーツァルトはもともと適当な(しかし天才な)男なので、きっと大丈夫だろう。
モーツァルトのピアノ協奏曲は第1番から第27番まである。「ピアノの詩人」と呼ばれるショパン大先生はたったの2つ。その多作さは尋常ではない。
中でも人気のあるものは20番や21番、26番「載冠式」など、20番以降のものだろう。あまり番号の若いものの方は演奏されないのだが、この9番「ジュノム」は比較的演奏機会に恵まれる作品だ。
ジュノムとは、モーツァルトがこの曲を作ろうと思うきっかけとなった女性ピアニスト「ジュノーム嬢」(正しくはジュノーミ嬢)のことである。
この人物の詳細は不明だが、やはり一人の女性のために作曲したという経緯だけで、この曲への好感はぐっと高まる。
晩年のピアノ協奏曲の人気が高いのは、もちろんその完成度が高いからだが、この「ジュノム」はそれらに引けを取らない、内容の濃い作品である。ジュノーミ嬢はなかなか素晴らしいピアニストだったのだろうか。
さて、僕はモーツァルトのピアノ協奏曲の中で、この曲が最も好きである。
その理由はずばり、「序奏が美しい」からだ。もう始まって数秒の音だけで、得も言われぬ幸福と頬の緩みをもたらしてくれる、なんと美しい序奏。

「E♭、E♭・G・B♭・B♭・B♭」とオーケストラ、すぐさまピアノが答える「B♭E♭・F・G・B♭AGFE♭・D(トリル)・E♭」。
たったこれだけのことで、なぜこうも人を幸福にさせるのだろう。音楽の素晴らしさをしみじみ感じる。
当時のモーツァルトのピアノ協奏曲は、オーケストラによる主題の提示がしばらく続き、それからピアノが登場するという形式だった。こういうことについては以前ショパンのピアノ協奏曲の時に少し書いた(記事はこちら)。
こんなにすぐにピアノが登場するというのは、モーツァルトの中ではやや奇をてらったものだったのだろう。このオケによるたった6音の序奏の美しさに感動すると、すぐさまピアノによる愛らしい返答にさらに感動が重なる。
このド頭の感動は何なのだろうと思って考えてみたら、この曲と、僕の最も好きなクラシック曲である、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」との類似点だった。
「ジュノム」のピアノが早々に現れるという手法は、ベートーヴェンにも影響を与えたらしい。偶然にか、変ホ長調というところも共通している。
クラシック音楽を聴くようになったきっかけである「皇帝」、その「皇帝」に大いに影響を与えた「ジュノム」は、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で最も強い印象を僕に与えた曲だ。
多くのモーツァルトの作品については言えることだが、有名な「アイネ・クライネ・ハナト・ムジーク」も、交響曲第41番「ジュピター」も、ややマイナーかもしれないがピアノ四重奏曲第1番も、ほんの一瞬の序奏に身震いするほどの美が存在している。
ほぼ序奏についてしか書いていないが、その序奏の美しさは、音楽の素晴らしさそのものだ。

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モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調:ピアニストに、ぜひ

モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲
(2006/11/22)
ズッカーマン(ピンカス) パールマン(イツァーク)

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モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調 K.423

モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いたことがある人は多いと思うが、この二重奏はまさしく「弦楽版ピアノ・ソナタ」と呼ぶのに相応しい作品だ。
ピアノ・ソナタは、ヴァイオリン・ソナタやヴィオラ・ソナタのようなピアノと弦楽器という異なる楽器の組み合わせによるソナタではない分、統一感がある。
また、音域の広さもあり、ピアノ1つであっても弦楽器1本の無伴奏ソナタよりも幅が広い音楽が展開される。
と、まあこんな風に書くとヴァイオリン・ソナタや無伴奏ソナタが好きな人から怒られてしまいそうだが、別にそれらを卑下している訳ではなく、それらには勿論それら独特の魅力があるのであって、少し比較してみただけのこと。
統一感と幅の広さが楽しめる室内楽として、この二重奏は非常に優れた作品だと言えよう。
弦楽四重奏やブラス・バンドなどよりも小さい同族楽器同士の組み合わせであり、アンサンブルというよりもまるで一つの器楽であるかのような雰囲気だ。
ちなみにこの組み合わせの二重奏曲はK.423とK.424の2曲が存在し、どちらもミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフ・ハイドンの弟)の仕事を助ける形で作られた。
ミヒャエルも音楽家であり、ヴァイオリンとヴィオラのためのソナタを6曲依頼されていたのだが、4曲作った後、彼は病気で作曲が困難になってしまう。
ウィーンで結婚した後たまたまザルツブルクに帰っていたモーツァルトは、親しいミヒャエルのために残り2曲を引き受けたのである。
急遽代役を務めてこのクオリティなのだから、モーツァルトはやはり天才なのだ。

普通の3楽章のソナタで、それこそピアノで言う右手がヴァイオリン、左手がヴィオラ、という印象を受ける部分がほど多い。
そういったやや協奏曲チックな楽しみもあれば、室内楽的な楽しみ、二人の奏者の掛け合いを楽しめる部分もある。
ピアノ・ソナタのようだと言ったが、特に2楽章のアダージョで、弦楽ならではの息の長い旋律を味わうのを忘れてはいけない。
弦楽ならではの魅力と、二重奏だからこそ発揮される魅力と、まるで一人の音楽家が演奏しているかのような魅力、それらがこのヴァイオリンとヴィオラという最小の組み合わせだからこそ成り立っているのだ。
あまり録音が多い作品ではないのだが、絶妙なバランスで生かされている二重奏の典型例として挙げたい、それくらい素晴らしい作品だと思う。
さて、礼賛が終わったところで、ピアノというのは右手と左手と一人の人間が担当する訳で、いかにそれぞれ単独に頑張ろうとしても、2人の人間がやるようには行かないものだ。
しかし、もし時に一人の人間が両手をコントロールし、また別の時には二人の異なった人間が音楽をするようにピアノ・ソナタが弾けたらどうだろう。
まあ、人間には限度があるし、僕は出来ないから別に良いのだけれど、この二重奏を聴いていたらそんなことを少し考えてしまった。

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