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珠玉の名曲たち、クラシック音楽を楽しむブログ。クラシック音楽の楽曲をテーマに、短いエッセーを書いています。

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レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」:イタリア礼賛研究序説3

レスピーギ:ローマ三部作レスピーギ:ローマ三部作
(2007/11/07)
トスカニーニ(アルトゥーロ)

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レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」

「イタリア礼賛研究序説」と題して3度に分けてお送りしたエセーの最後は、ローマ三部作のうち最初に作曲され、この曲によってレスピーギは作曲家として売れっ子になったという、重要な作品、「ローマの噴水」である。
レスピーギが聖チェチーリア音楽院の作曲科教授であった頃、ボローニャからローマに移住した彼は、芸術の都で得た印象をもとに「ローマの噴水」を作曲した。1916年のことである。
この曲のスコアの冒頭には、序文としてレスピーギが説明を付している。「ローマの噴水の四つで、その特徴が周囲の風物と最もよく調和している時刻、あるいは眺める人にとってその美しさが、最も印象深くでる時刻に注目して受けた感情と幻想に、表現を与えようとした。」というものだ。
後2作の松と祭りは歴史絵巻的な要素が加わるが、噴水はむしろ、ローマの芸術的な美しい噴水の情景描写という、ドラマよりは絵画的な音楽になっている。
奥深さこそ後2作に劣るかもしれないが、抜群のオーケストレーションと、美そのものを捉えた描写は、この曲を三部作の中で最もわかりやすく、印象派音楽の良さが最高に楽しめる作品たらしめている。
何より、この曲は楽器の使用バランスが非常に良い。管弦打と、絶妙なバランスで用いられ、それによって他のオケ曲にないような色とりどりの表情を作り出している。
夜明けのジュリアの谷の噴水(La fontana di Valle Giulia all'alba)、朝のトリトンの噴水(La fontana del Tritone alla mattino)、真昼のトレヴィの泉(La fontana di Trevi al pomeriggio)、黄昏のメディチ荘の噴水(La fontana di Villa Medici al tramonto)の4つの部分からなる。

開始早々から、その透き通った空気感に、気持ちも晴れやかになることだろう。夜明けのジュリアの谷の噴水は、管楽器が多用され、長閑な雰囲気が醸し出される。動物たちも目覚め始めた頃か。
朝のトリトンの噴水は舞曲風。海神トリトンと泉の妖精ナイアデスたちが踊っているのだ。ホルンの音色は女神たちの吹くほら貝。楽しげで、神秘的な美しさ。朝の日差しを受けた女神たちの美しさよ!
勇壮で力強い音楽の、真昼のトレヴィの泉は、ローマで最も有名で大きな噴水をテーマにしたものである。金管楽器が華やかに鳴り響き、
ポセイドンがトリトンや女神たちを従えて凱旋する様子である。
最後、黄昏のメディチ荘の噴水は、これもまた美しいテクスチャ。夕焼けが水に反映する様を想像したい。本当に、管弦楽の隅から隅まで輝かせた音楽だ。
さて、「イタリアの素晴らしさ、イタリア芸術の素晴らしさがこの曲の言いたいことであって、ファシズムとは関係ない」というのは、やはりおかしいのではないかと、1,2で語った。それはファシズムがこの曲を利用し、レスピーギほかイタリア礼賛に関わる作曲家を優遇したのと同じ理屈である、と。
おそらく、ファシズムは悪であろう。しかし、ファシズムがローマ三部作という音楽の魅力に惹かれたことそのものの、一体どこに悪があろうか。政治思想など関係なく、良い曲を良いと思うこと、好きな音楽を好きと思うことに、罪はないと主張したい。
戦時中の音楽や軍歌を芸術として良いと思うことに罪はない。国威発揚、結構ではないか。もっと音楽を大切にしても、もっと愛してもいいじゃないか!
「ローマの噴水」は、ローマ三部作の中で、もっともわかりやすく、ローマの芸術の美を描いている作品だ。レスピーギのイタリア礼賛が問題なのではなく、イタリア礼賛の中にある美を受け取る人間の、判断の問題なのだ。良いと思うか、愛せるか、そこで判断してほしいのだ。
音楽が究極的に表しているのは、古代ローマ帝国の復興やイタリア礼賛ではない。それらはレスピーギの気概であり、音楽そのものではない。
究極的には、“噴水そのものの美”を表現しているのだ。
作曲家が生み出した音楽を受け取る演奏者・聴衆が、音楽からしかと芸術性を見い出さなければならない。美を見出さなければならない。歴史の暗の部分に惑わされてはならないのである。
イタリア人がレスピーギを演奏するように、日本人は、日本を作ってきた音楽を大切にすべきだ。歴史の暗闇から真の美を救わなければならない。音楽に正義を与えるのは、音楽から見出される美にほかならない。
レスピーギのイタリア礼賛という事実は、当然ながら真摯に受け止める必要がある。それはファシズムとベクトルが同じで、ファシズムに利用されたかもしれない。
だがそれはレスピーギにとっては二の次の問題で、彼にとっては芸術を突き詰めた結果がイタリア礼賛だった。
だから、必要以上にレスピーギとファシズムの関係を無かったことのように語ってはならないし、そのまた逆もしかり。イタリア礼賛は、レスピーギが“美”を追求した結果である。我々もまた、ひたすらに“美”を追求しなければならない。

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| レスピーギ | 19:52 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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レスピーギ 交響詩「ローマの松」:イタリア礼賛研究序説2

レスピーギ:ローマ三部作レスピーギ:ローマ三部作
(2007/11/07)
トスカニーニ(アルトゥーロ)

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レスピーギ 交響詩「ローマの松」

レスピーギは聖チェチーリア音楽院の院長を務めた人物だが、院長になってからは多忙で作曲活動に勤しむことがかなわなかったようだ。「ローマの松」は、彼が院長になる前からちょうど院長になったばかりの頃の作品で、1923年から24年に手がけられた管弦楽曲だ。
先日は「イタリア礼賛研究序説1」と題して、「ローマの祭り」について記事を書いたが、この両者はどちらも歴史絵巻で、大河ドラマチックな交響詩である。
それにしても、「松」なんて不思議な主題だが、これは印象派が最も得意とする“自然描写”であり、レスピーギの手腕が最もよく活かされていると言っても過言ではない。
レスピーギがテーマにした「噴水」は造形芸術であり、「祭り」は文化である。それぞれに歴史があり、人々との関わりが大きなものだが、それに加えてさらに「松」は自然というより大きなキャンバスが用意されているのだ。
この曲のアメリカ初演(トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル)の際、レスピーギはプログラムに以下のように書いたという。
「『ローマの松』では、私は、記憶と幻想を呼び起こすために出発点として自然を用いた。極めて特徴をおびてローマの風景を支配している何世紀にもわたる樹木は、ローマの生活での主要な事件の証人となっている」
この曲が自然を通して描いたローマの歴史絵巻であることが語られている。そしてこの曲は、古代ローマへの憧憬と賛美が、感情的に非常にわかりやすく伝わってくる曲である。
オーケストラの持つ、力強さや激しさの魅力と、叙情的に歌われる音楽の魅力の、両方がバランスよく楽しめる名曲だ。
曲は、ボルゲーゼ荘の松(I pini di Villa Borghese)、カタコンブ付近の松(Pini presso una catacomba)、ジャニコロの松(I pini del Gianicolo)、アッピア街道の松(I pini della Via Appia)の4つの部分からなるが、やはり聴きどころは静かに歌われる部分と、そこからの盛り上がり方だろう。
そういう意味でアッピア街道の松は、非常に完成度の高いクライマックスだ。ここが上手くいくかどうかが、名演かどうかの分岐点というもの。ラヴェルのボレロ、ハチャトゥリアンのスパルタクス「ガディスの娘の踊りとスパルタクスの勝利」のように、盛り上がり方が微妙だと何一つ面白くないが、上手くすると信じられないような興奮を引き起こす。もう本当、興奮して鼻血が出る。

高音で華やかなメロディーから始まるボルゲーゼ荘の松は、終始高音域で奏でられる。この高音域は、ローマのボルゲーゼ公園で遊ぶ子供たちの様子だ。元気な声で駆け回る子供たち――これは時代を越えて共通のイメージかもしれない――を想像して聴きたい。
カタコンブ付近の松は、一転して低音中心の荘厳な音楽。カタコンブとは古代ローマのキリスト教の地下墓所のこと。グレゴリオ聖歌の音楽も用いられ、暗い地下からの呻き声のように響く。
ジャニコロの松は、レスピーギの叙情性がよく現れた、とても美しい音楽。彼自身の説明は「そよ風が大気をゆする。ジャニコロの松が満月のあかるい光に遠くくっきりと立っている。夜鶯が啼いている」。これが全てだろう。鍵盤楽器の奏でる夜の情感、そしてクラリネットのソロに注目。これが自然描写としての「ローマの松」の白眉だ。ちなみに、夜鶯の啼き声は録音されたものが流されることになっている。
そしてアッピア街道の松。テンポ・ディ・マルチャと指定されるように、これはローマ軍の行進である。夜明け頃、遠くから現れる軍隊の行進が、アッピア街道を進む。ダイナミクスは徐々に大きくなり、勝利の進軍は威風堂々。別働隊のファンファーレも加わり、音楽は最高潮に達する。なんとよくできたフィナーレだろう。
このフィナーレで興奮しないものはいない。ましてや、それがローマ軍の勝利の進軍であれば、ファシストにとっては最高の音楽であったに違いない。
アッピア街道の松は、レスピーギをファシズムの作曲家として語る際、もっとも取り上げられるものだ。
「古代ローマ帝国の復興」を掲げたムッソリーニの国家主義は、この曲の作曲された1924年には、すでにイタリアを席巻していた。
そんな中、古代ローマ軍の進軍までもが含まれるイタリア礼賛色一色のこの音楽は、国威発揚の音楽としてもってこいであろう。
日本でも非常に人気が高く、しばしば演奏される「ローマの松」だが、日本の同じような音楽はタブーなのに、西洋の曲となると簡単に賞賛するものだ。
当然、本国イタリアではレスピーギの演奏がタブーであった。そしてようやく、イタリアでも演奏されるようになってきた。諸外国で価値が認められたことも影響はあるだろうが、いずれにせよイタリアには勇気の要ることに違いない。
これは、戦争という忌まわしい過去から脱却し、イタリアでレスピーギの芸術性を認めるようになってきたからということに加え、やはりイタリア人がレスピーギを聴き、演奏し、愛でることの意味の大きさが、次第に認識されてきたからではないだろうか。
国家主義的な思想に与するつもりは微塵もないが、自分の国の音楽を大切にすることの意味は大きい。イタリア礼賛=ファシズムではないと示すこと、イタリアの歴史の闇からレスピーギの音楽を救うことができるのは、ほかならぬイタリア人である。
日本の音楽も同じだ。僕は戦争の記憶を捨てろというのではない。反戦を訴える芸術は無数にあるし、素晴らしいものも多い。その一方、戦争のしがらみから抜け出せない、憐れむべき芸術もあることを忘れてはならない。

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| レスピーギ | 00:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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レスピーギ 交響詩「ローマの祭り」:イタリア礼賛研究序説1

レスピーギ:ローマ三部作レスピーギ:ローマ三部作
(2007/11/07)
トスカニーニ(アルトゥーロ)

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レスピーギ 交響詩「ローマの祭り」

やっとブログに登場するオットリーノ・レスピーギは、イタリアの作曲家。擬古典的な作風もあるが、こと管弦楽曲については印象主義的な作風で、師であるリムスキー=コルサコフの影響が大きく、またラヴェルなんかとも近いものがある。
「ローマの祭り」はレスピーギの有名な管弦楽曲で、ローマ三部作の1つであり、他の2つについて一般に言われるのは、最初に作られた「ローマの噴水」が一番バランス良くかつわかりやすく、次の「ローマの松」が一番人気である、ということか。
個人的には、人気の松、実力の噴水、そして祭りはというと、「気合の祭り」とか「根性の祭り」と言いたい。
レスピーギはイタリア音楽の復興を色々な面から推し進めた人物であり、それは例えばヴェリズモからの脱却と現代的な音楽の構築であったり、ルネサンスやバロックを顧みた新古典主義の旗揚げであったりと、まさしく“芸術の国”イタリアを取り戻そうという気概が感じられる作曲家だ。
古来イタリアは西洋芸術の中心地であり、ヨーロッパ各国の多くの芸術家たちがこぞってイタリアに出かけ、模倣し、芸術を学んだ地である。
そういう芸術において深い歴史を持つイタリアだからこそ、レスピーギが管弦楽法の限りを尽くし、古代から続くローマの歴史・文化を描こうとしたことは納得がいく。
ローマ三部作はいわゆる歴史絵巻であり、イタリアがいろんな意味で輝いていた時代を聴衆に振り返らせ、楽しませるものである。
多くの歴史的・芸術的名場面を描出したものであり、聴く方にある程度の知識を必要とするものの、そのための面倒を解消させるかのような、非常にぱりっと分離の良いオーケストレーションの存在が、レスピーギの作品の長所だ。
4つの切れ目のない部分で構成され、それぞれチルチェンセス(Circenses)、五十年祭(Il giubileo)、十月祭(L'Ottobrata)、主顕祭(La Befana)と表題が付いている。

歴史絵巻は古代から始まる。チルチェンセスは古代ローマ帝国時代の祭り。キリスト教を迫害した皇帝ネロが円形劇場で行った祭で、キリスト教徒を猛獣に喰い殺させるというもので、その通り重く激しい音楽である。
トランペットの別働隊も加わった金管群は猛獣たちである。キリスト教徒の祈りである聖歌が弦楽で奏でられる裏でも、常に獣の唸り声が聴こえる。
五十年祭は中世のお祭りだ。巡礼者たちがモンテ・マリオの丘へと歩いている様子が描かれる前半と、丘の頂上にたどり着き感極まった巡礼者たちが聖歌を歌い、永遠の都・ローマを見渡す後半。特に後半の描写は圧巻だ。巡礼者たちの魂に応えて教会の鐘がなり、ホルンのソロで次の時代へ。
中世の次はルネサンスの収穫祭である十月祭に移る。これは葡萄の収穫を祝う祭りで、遠くから聴こえる角笛や甘美なヴァイオリン、夕暮れ時の長閑だが情熱的なマンドリンの愛の調べと、ずいぶん曲の照明は明るくなってくる。
クライマックスは狂乱の主顕祭。ナヴォナ広場で行われる主顕祭の前夜である。人々は歌って踊り、手回しオルガンやソロ・トロンボーンによる酔っ払っいのシーンは面白い。“オーケストラの洪水”とはまさにこの曲の主顕祭にこそ相応しい。ひたすらに狂乱のクライマックスだ。
オルガンや特殊な打楽器、別働隊、マンドリンなど、大編成でごちゃごちゃしているようで、意外と各々がすんなり聴こえるという、レスピーギの腕の良さがわかる作品である。熱狂はするが、当然のことながら叙情感には欠ける。レスピーギ自身はかなりリリカルなところがあるのだが。
斯くの如く、イタリアの祭事史を描いた素晴らしい芸術であるが、当のイタリア本国では、第二次大戦後しばらくレスピーギの作品は演奏されなかったという歴史がある。これは、レスピーギの音楽の「イタリアの栄光の復興」というテーマが、ムッソリーニの古代ローマ帝国の文化の復興というファシズムを、いわば応援していたのだという見方によるものだ。
事実、レスピーギはムッソリーニと親交があり、むしろファシスト寄りの作曲家であったようだ。「ローマの祭り」初演を指揮した名刺記者トスカニーニはムッソリーニの国家主義的な音楽の使用(これはヒトラーも同じだ)をはっきり拒否したそうだが、それによって暴徒に襲われたという記述も残っている。
ファシズムが生んだ音楽かどうかという議論はレスピーギ解釈にとって重要なことかもしれないが、レスピーギのイタリア礼賛と古代ローマ文化の見直しの重要性は、少なくとも確かなことではある。そして、それは芸術としてひとつの成功であったことも事実だ。
三部作の最終作であるこの「ローマの祭り」は、1928年の作品。奇しくもファシズム大評議会が正式に国政の最高機関となった年だ。
僕はもちろん、この音楽は悪ではないと思うし、大いに演奏されるべきだとも思うし、そう言っても誰も不思議に思わないだろう。
だが、僕が大声で「大日本帝国時代の音楽は芸術的に優れているから今でも演奏するべきだ」なんて言ったら、そこらじゅうから袋叩きにされるだろう。
極端な例かもしれないが、「ローマの祭り」は芸術の都イタリアを礼賛しているだけだから誉めても良いが、軍歌を誉めてはならないとなったら、それはとんだお門違いだ。ムッソリーニと同じ思考回路でレスピーギを称えていながら、日本の帝国主義を理由に当時の音楽を批判することになるのだから。
イタリア礼賛研究序説1と題したので、もちろん2,3とローマ三部作を遡る形で、イタリア礼賛がローマ三部作を正当化する理由にならないということ、また何がこの音楽に正義を与えうるのかということを考察したい。

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